アマミツル空の色は Ⅱ amamitsuru.exblog.jp

日々、いろいろ、雑記帳


by まおちぃ
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絶対また行くぞ、と思っている。
……丸1年経った今。

たらたら続いたアイルランド話も、今回でようやく終わりです。
でも、スコットランド話が3年もかかったことを思えば、1年で終わるなんて、なんてすばらしい。



アイルランドの天気は良好。気温は20度。
さて、最終日、午後2時前。
ダブリンライターズミュージーアム、トリニティ・カレッジとひたすら歩き続け、お腹が空いた。どこかでお茶がしたい。

『地球の歩き方』に載っていた「AVOCA Café」に入ってみた。やたらと可愛い雑貨店である。
(……アイルランドにも、こんなお洒落な雑貨屋が……!!!)
アイルランド産の羊毛を使った製品をベースに展開しているお店らしい。どの製品も色彩がいい。ウール100%の色鮮やかなスカーフやマフラー、文具雑貨、石鹸や食器などなど、見た目にも女子が好みそうなものばかりである。※日本でも取り扱っています。
が、ユーロでもいい値段がする。
(まずはお茶しよ)
2階に上がった。階上がカフェなのだ。ほぼ満員の盛況ぶりである。
空いている席について、メニューを手に取る。ケーキ類が6ユーロから10ユーロする。食事並みに高いじゃないか。しばらく悩んだ末、レジの横に積まれた山盛りスコーンが目に入った。
店員さんに頼んだ。
「スコーンとコーヒーください。あの、スコーンにはジャムとクロテッドクリームをつけてください」
やっぱりスコーンなのである。
だって、安くてうまい^^

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1人でお茶している人もいれば、お喋りに興じているグループもいる。家族もいる。みんながそれぞれに週末の午後を楽しんでいる。
わたしもお土産買わなきゃ。
お昼ご飯兼お茶を済ませて、「AVOCA Café」内を探索した。地下は食料品、惣菜売り場であった。ここでしばらくうろうろした。雑貨も高いが、食品もそれなりのお値段だった。で、最終的にコーヒーを買った。(お土産としてばら撒いたので、味はどんなふうだったのか、わからないけど)
そのあと、店を出て、オコンネル通りの土産物ショップに向かった。ここで再び土産物を大量に買う。紅茶とかクッキーとかね。

この時点で、すでに時刻は4時15分すぎ。
最後の最後に行きたいところがあった。国立図書館の「イェーツ展」である。
(閉館が5時なら、まだ時間がある!)

ダッシュで図書館に急いだ。「イェーツ展」の朗読コーナーに飛び込み、長椅子に座った。展示室にもう客がほとんどいない。わたしのそばに女の子が1人いた。
詩が相変わらず静かに流れている。
(あと30分くらいあるや。ゆっくり聞けるな)
と思ったのもつかの間、係員がやってきて、閉館時間だ、と叫んだ。
(あ?)
どゆこと? まだ時間あるよ? 今まだ40分だよ?
金曜日の閉館時間は16時45分だったのだ。

5時前に放り出されて、再びショップ巡りをする。アイルランドチックな帽子(ハンチングキャップ等)を両親への土産とする。
「頭のサイズが全く判らないんですが、Mがいいですかね? Sがいいですかね?」
なんていう、店員さんを困らす質問をいろいろしたなー。
さらに「WILD GOOSE」というステキなデザインメーカーの品を買う。

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未だ開封していない^^

国立考古学・歴史博物館所蔵のあの“金の船”がデザインされている!
ドルイドっぽい人物がデザインされている!
真ん中にはシャムロック!!!

THEアイルランドって感じ。
全3種類デザインがあったが、“金の船”につられて、かつ、ランチョンマットやテーブルクロスなどの品もあったが、一番安価なコースターにした。考古学的デザインっていいよね。
ちなみにこれは自分用アイテムだ。
(この“金の船”がすっごくいいの~)
と力説しても、誰からも同意を得ないだろうから。

こんなふうに、アイルランド最終日は過ぎていった。
語ったとおり、午後はひたすら店巡り。
特筆することもなく、過ぎていった。
どの国でもそうだが、1週間ほど滞在すると(言語能力はさておき)愛着がわく。アイルランドは2度目だったから、なおさらだ。
例えば、最終日の空の色とか、歩く人の顔とか。

実際のところ、あまり印象に残っていない。やはり2度目だったからか。
そうそう、忘れる前に記録。
最終日の前日。

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お刺身がおいしかった~。ブラックライスもなかなか。
値段が高かったけれど、アイルランドで日本食が食べれるほうがうれしい。










「Yamamori Izakaya」からホテルに戻る際、方向を間違えて、迷ってしまった。
時刻は夜の10時頃。さすがに女性1人で歩くには遅い時間なので、少し焦っていた。
すると、男性に呼び止められた。
「日本人? どこに行くの?」
オコンネル通りに出たい、と返すと、彼は驚いた。「逆だよ。あっちだよ」
(あ、地図を逆に見ていた……)
どうりで見たことのない風景ばかりが出てくるはずだ。
礼を言うと、彼は満面の笑みでOKと言った。
「ぼくは日本に行ったことがあるんだ。日本人の彼女とつき合ったこともあってね。ジュンコっていうんだ」
いや~、ジュンコさん、ありがとう!

地図を見ていると、たいてい誰かが、大丈夫?、と声をかけてくれる。
そんな街だなあ、ダブリンは。


肝心の最終日の夜の店はこっち。

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オコンネル通り沿いにあるバー。「Murray's Bar」
店内の至るところに、アイルランド独立戦争時の写真がある。歴史の証人となってきたバーなのだ。
このバーの前で、人々が奔走し、鬨の声を上げた。銃撃戦を伴う政治の舞台になった。悲しみも喜びもあった。
でも、写真は重厚に飾られているというより、テーブルデザインになっていたり、壁画になっていたりと、ポップで軽やかだ。土産物屋で、当時の写真がモノトーン調の洒落たレターカードとして売られているくらいだから、いやはやこのセンスに素直に脱帽する。

日本だったら……、1900年代初頭の歴史的事件をポストカードにしようにも、暗くて売れないよな。

やはりアイルランド人にとって、独立にまつわる出来事は特別なものなんだろう。


わたしにとって、アイルランドと言えば、
緑の草むらが延々と広がるところであったり、巨石遺跡が多々点在するところであったり、ケルト十字が魅惑的な、妖精がまだ生きていそうなミステリアスなところだが、
そして、そういうイメージをアイルランドは積極的に観光の目玉にしているが、
アイルランド人として生まれると、自国にどんなイメージを抱くのだろうか。



とりあえず、記憶に残ることと言えば、
アイルランド人は、
じゃがいも、好きなんだな
ということ。どの料理も添え物ではなく、メインで出てくる。
意外にも、旅行中、じゃがいも畑を目にしてはいないが。

ぜひ土産物産業に“じゃがいも製品”をつけ加えたし。
冷蔵庫でじゃがいもの芽ががんがんに伸びるまでほっといた、とある日本人の本日の感想です。
1年前の今日がアイルランドに旅だった日、だったんだよなー。




そう。1年って、早い。
今でも届くアイルランド便りと言えば、
ダブリン、ゴールウェイの航空便がお安いですよ、という航空会社とホテル業界のメールと、
たまに読むイェーツの詩集と、ケルト系書籍、
ケルト以前の“巨石先史時代”を妄想することくらいか。


薄曇りの空に遠くから風が吹くとき、アイルランドにいるみたいだなあ、という感覚になる。

次行くときは、今度こそ南に行ってみよう、と思う。






☆最近の動向☆

もとから石好きだが、
数年ぶりにミネラルフェアに行って、さらに石が増えた。
石脳になって、書籍も増えている。
それはそうと、アイルランドって、石の原産としては有名じゃないよね。
なぜだろう。
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# by mao-chii | 2016-06-19 23:39 | 旅の話 | Comments(0)
帰ってきた、トリニティ・カレッジ。
旅の最終観光地は、やはりここである。
(あとはカフェしたり、土産物を買ったり、ご飯を食べたり♪)

トリニティ・カレッジの学生さんが数十分ごとに学内ツアーを敢行している。どうせならツアーに入っちゃえ、と申しこんだ。
お兄さん2人組が連立って、各所を案内してくれた。といっても、トリニティ・カレッジ所蔵「ケルズの書」がある館の入り口まで。距離にして、せいぜい100mほど。
ツアーの大半は、彼ら学生さんによる“話術(トーク)”であった。トリニティ・カレッジに在籍した偉大な先輩達の逸話を次々に披露し、ツアー客を喜ばせる学生さん。その多くは銅像になっていたり、プレートになっていたりするけれども、全く興味のない者からすれば(ふーん)で終わってしまうのがつらいところ^^
偉大な先輩の1人、ブラム・ストーカーの話があった。
「ブラム・ストーカーがですね、ある日、酒場で酔っ払って、床に寝っ転がって……」
声に時々笑いが混じる。
ヒアリングが貧相なせいで詳細がいまいちわからなかったが……(ごめん)、
ともあれ、“いかに醜態を晒したか”なエピソードを、150年後、まさか後輩に喜々として語られることになろうとは思いもしなかっただろう、ブラム・ストーカーも。

そんなこんなで、「ケルズの書」である。
スコットランドの西の島、アイオナ島で製作に着手、その後ヴァイキングの襲来から逃れてアイルランドに渡り、ダブリンの北西、ケルズという地にて完成した聖書の写本。西暦8-9世紀にできた豪華な、豪華な装飾本である。
現在、アイルランドの国宝になっているこの本は、時代の古さといい、彩色の美しさといい、描画の緻密さ、繊細さといい、デザインのおもしろさといい、今でも西洋写本界のトップに君臨している。その「ケルズの書」がトリニティ・カレッジにある。
「ケルズの書」及び「オールド・ライブラリー」。
トリニティ・カレッジがダブリンの観光名所のひとつになる理由がこれなのだ。
(ここを見ずして、日本に帰れない)

トークツアーが終了し、そそくさとオールド・ライブラリーに向かうと、建物に沿って観光客達が、並ぶわ並ぶ、数珠のように列をなしている。すでにチケットを持っていたので、さくさくと展示室に入った。
(うわあ~)
以前訪れたときに比べて、空間が広く、展示センスが良くなっている。
大学に付随した展示室という、どこかやぼったい、でも関心のある人だけが深々と見学していた空間が、魅せるための部屋、視覚的にも人を楽しませる空間に変貌していた。なにより、

実物の写本が見れる。

これ、重要!
(前はレプリカしか展示していなかったの)

生の写本は、そこにあるだけで圧倒的な存在感だった。
(本というより、装飾画だよなあ)
例えば、アルファベットは次のような文字になる。

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鶴岡真弓著『ケルト/装飾的思考』によると、

文様はケルトにとって単なる装いのためのモチーフではなく、のちに詳述することになるが、それ自身聖なる表徴といってもよいものだったからである。

と、ズバリ書いてある。

ケルト美術に“余白の美”というものは存在しない。隙間さえあれば、際限なく伸びる蔓草のように、頁に円や曲線が幾重にも旋回している。例えば、“ケルティックアート”なる本を開いてみても、どのイラストにも編み紐のような文様が絡みつき、絡みつき、また新たな文様に絡みつき、絡みつき、まるで永遠の迷路に似た、終わりもなければ始まりもないデザインに出くわす。もっとも「ケルズの書」と市井で売られているアート本とは描画の技術面で雲泥の差があるけれども。
でも、この非直線的なケルトの世界観こそ、わたしが惹かれてやまないところなのだ。


ケルトの組紐文様は、しばしば造形的強度において聖書の図像や文字を凌駕している。つまりキリスト教的な枠組のなかで「聖なるもの」を演じつつ、その枠に閉じ込められることを拒み、組紐文様の造形自体を主張しているのである。それは組紐という形象がケルトの想念を触発する、彼らにとっての本源的な形象であることを予想させはしないだろうか。
(鶴岡真弓著 『ケルト/装飾的思考』より)


そう言えば、ずうっと前に、図書館で1冊の本を借りた。で、ずうっと前に、ブログにも書いた。そうそう、これ
ケルトの執拗なまでの組紐文様にどこか親近感を覚えるのは、日本にも執拗なまでの“紐”文様を施した歴史的遺物があるからだ。縄文土器である。
本は“ケルトと縄文人は似たような宇宙観をもっていた”なことを述べていたと思うが、約1万年ほど続いた縄文人の思考、思想は、今を生きる日本人からみても謎に包まれている。
が、これだけはわかる。土をこねて器を作る作業に、日常的に使用する一道具以上の、どうしても発露せざるを得ない何らかのエネルギーを込めたのだろう。つまり、縄文人にとって、“土器”こそが自由に表現できるツールになったのだ。
同じく、当時のケルト人達も、岩にせこせこ渦巻き文様を彫るよりもはるかに自由度の効く、かつダイナミックに表現できるツールを手に入れた。それが“写本”なのだ。しかも、そのツールには“キリスト教”という聖なる信仰がバックについていた。
文字をもたない、文字で記録を残すことを拒んだケルト人が、きわめて深い信仰心で福音書の文字を写し、過剰なまでの文様装飾で飾ったのは、“天上の主”のためだけではないだろう。詳細に見るものは、そこに“そう表現せずにはいられない”ケルト独特の心性を否応にも体感するはずだ。
渦の中に渦があり、その渦の中にも渦があり、渦を巻き込む渦があり、渦に繋がる渦があり……



――なーんて、他人事のように書いているのは、当のわたしが詳細に見なかったからだ。
カメラの電池が切れかかっていて、全く写真を撮らなかった。ついでに、ま、2度目ということで、滞在時間も非常に短かった。
(装飾本より、土産物屋よ!
とばかりに通り過ぎ、これまた有名なオールドライブラリーの一本道をてくてくと足早に歩き、前回と同じく、
(あれらの本は、触れたらあっという間に崩れてしまうのだろうか。本と本の隙間がないけれど、虫干しとかはしているのだろうか)
という感想を抱き、
(飾りになっているだけの本って、悲しいなあ)
と思ったりした。

だって、この写真の悲しさよ。
これが最後の1枚かもしれない、と撮ってピンボケになりました……。
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土産物屋で、「ケルズの書」関連の書籍を買うかどうかで悩み、絵ハガキだけでいいや、とレジに並び、前にいた女の子が超絶美麗なオールドライブラリー全景のレターカードを買うのを目にして、あ、あのカード、むっちゃ荘厳な雰囲気でいいな~、わたしも買おうかな~、ま、いいや、いかにも観光客向けのカードだもんな、こっちの絵ハガキのほうが断然ユニークだよ、アイルランドの土産物もお洒落になったなあ。
……そんな思考ばかりが記憶に残っている『ケルズの書』見学ツアー。
今になって、盛大に後悔しているわけであります。

なぜなら、
生の目で見ても、あの本にもこの本にも触れられないなんて、とフラストレーションが溜まり、
カメラの眼を通しても、これのどこが美しいの? とクエスチョンがつく有り様なら、
あの超絶美麗なレターカードを手に入れて、記憶を更新しとくべきだった。
プロのカメラマンが位置、構図、時間のすべてを計算して撮った完璧な写真だったのに。
“教会の内陣”のように神々しいオールドライブラリーのレターカード。
少なくとも、この(↓)10倍は美しかったよ。                     

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☆おわび☆

すみません。
マジで放置していました……。
土産物屋を熱心に物色した記憶しかなく、なにで水増ししよ~、とへたれていました。
感情をともなって書けるのは、ラスト6行のみ。
よって、これはタダの水増し記事です。
2度目の訪問って、ほんとおざなり。

来てくださった方、ありがとうございます^^
(5/5)
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# by mao-chii | 2016-04-11 23:39 | 旅の話 | Comments(2)
前回、ダブリンを訪れたとき、一番印象に残った場所。それが、ダブリン・ライターズ・ミュージーアムだ。
アイルランド出身の作家に関する情報が集まっているところ、彼らにゆかりの文物が一同に会しているところ、華やかな展示とは無縁のところだけれど、文学に関心がある人ならおそらく退屈はしない。そして、英語が聞き取れる人なら……^^;

明日は日本に帰るという日、朝一番にオコンネル通りの先のパーネル通りに向かった。立ち並ぶ建物の一角がミュージーアムになっている。
といっても、10時からの開館なので、入り口付近でぶらぶらと待つ。空は青く、風も穏やか。そのうち、1人、2人と観光客が集まってきた。10時ちょうどにドアが開き、係員が顔を出した。

入場料、(オーディオサービス有りで)7.5ユーロ。
以前は(オーディオサービス無しで)2.9ポンドだった。

レートに従って換算しても、高くなっているような?
(まあ、仕方ないよね)
が、入館して驚いた。なんでだろう、展示物が格段に減っていた。

以前カフェスペースになっていたところは、ただの空き地になっていた。展示室だったところは、絵画鑑賞室になっていた。児童用スペースになっていた。
(展示物が減って、入場料が高くなるとは、こはいかに?
顔には出さなかったけれど、がっかりした。
細い間口の外観からは想像できないくらい、マニア向けの展示物がぎっしり詰まっていたところだったのに、緑に包まれたカフェテラスがあったところだったのに、結構、穴場のスポットだったのにな~、とぼやきつつふらふらと歩いていると、かの場所にたどり着いた。

ラフカディオ・ハーンのポートレート

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――がかかった通路の壁。
(……うむ。ちゃんとある)
“ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が故郷のアイルランドにお目見え”という記事が新聞に載ったのは、20世紀末のこと。日本では有名なハーンだが、アイルランドではほとんど無名だった。そのハーンがついに本国に初披露される画期的な場所になったのが、ここ、ダブリン・ライターズ・ミュージーアムであった。

このポートレートが飾られた年、わたしはアイルランドを訪れた。
日本的にはめでたい記事だったが、現地的には“通路に写真を飾っただけ”という微妙な扱いになっていた。当時は解説も英文が3行ほど。本国人は誰も気づかずに通り過ぎるんじゃないかな。ああ、ハーン、可哀想。
しかし、記憶にこびりついている出来事があった。
ロンドンに店を出している日本人のおっちゃんが、ハーン見たさにわざわざこのミュージーアムにやってきていたのだ。
「あんた! 日本人か! わてもや! どこから来た? わてはな、大阪や、大阪!」
(テレビの中でしか聞いたことのない)ごてごての河内弁(?)が響き渡った。
わたしを見つけて、階段下から話しかけてきたおっちゃん。
「小泉八雲が好きでな、ロンドンから飛んできたんや!! 今、その八雲を探しとんや!!!」
日本人同士、小泉八雲のファン同士、しばらく話が盛り上がった。その後、あり余る情熱をもって、おっちゃんは次なる部屋に突進していった。
まさか通路に写真が飾ってあるだけ、とは思わなかったであろう。
おっちゃんは初のアイルランド旅行で唯一出会った日本人であった。

で、月日は2015年の6月へと流れる。

(お、ちょっとは進化してるじゃないか。解説文が詳しくなっている)
島根県松江市から提供された原稿が、ガラスケースの中に展示してあった。当然日本語なので、日本人だけが読むことができる(英訳もあったが)。
(小泉八雲の本も置いて欲しいなあ。せめて『怪談』とか)
唯一、前よりお洒落感がアップしていた併設のショップにすら、彼の本があったかどうか……。(なかったような気がする)

作家であり、民俗学者でもあったハーンは、日本の“神道”について、こんなふうに書き記している。

神道を単なる祖先崇拝だとする者もいれば、それに自然崇拝が結びついたものだとする者もいる。神道とは、およそ宗教とは定義できないとか、無知な宣教師たちには、最悪の邪教だとか言われたりもした。神道を解明するのが難しいのは、つまるところ、西洋における書物や『古事記』『日本紀』、あるいは「祝詞」、あるいは偉大な国学者である本居や平田の注釈本などに依拠しすぎたせいである。ところが、神道の真髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、未来永劫滅びることも、古びることもない、最高の信仰心の表れなのである。
(『日本の面影』の「杵築」より)

ケルトとギリシャの血を受けたハーンの心性が、異国の信仰の本質をたやすく見抜いている。それは、故国アイルランドに今なお残る妖精伝説や幽霊譚などに親しんだハーンならではの洞察力だ。そして、それは当時の一般的な西洋人の視線とも全く違っていた。
“へるん先生は他の外国人教師とは違って、偉ぶらないし、いわゆる上から目線でもないし、まことにすばらしい”な感じで誉め称えているやはり当時の日本人のハーン評を読んだことがあるが、さもありなん。

ハーンの上の文章には続きがあるが、長いから省略。“神道”という説明しにくい日本独自の宗教を簡明に、かつ直感的に表現しているハーンはすごい。しかし、彼がここまで共鳴するというのは、ケルトと日本の心性にはやはり似通ったものがあるのだろう。
ハーンは日本という異国を通して、自らの故郷に眠る古い古い記憶に巡り合ったのかもしれない。
それにしても、大阪のおっちゃんすら魅了する、その吸引力たるや!(でも、アイルランドではいまいち存在感がないのだよ)

ネットで調べてみると、アイルランドにもハーンゆかりの庭園ができたようだ。


☆☆☆☆☆

ノーベル賞をとったアイルランドの作家と言えば、W.B.イェーツ、バーナード・ショー、サミュエル・ベケット、最近では、シェイマス・ヒーニー。さらには、『ガリバー旅行記』のジョナサン・スウィフト、『ユリシーズ』のジェイムズ・ジョイス、『ドリアン・グレイの肖像』のオスカー・ワイルドなどなど、錚々たるメンバーが並ぶ。

とはいえ、あまり詳しく語れないのは、わたしが彼らの作品をほとんど読んでいないからだ。
例えば、『ドリアン・グレイの肖像』は大学時代に授業のテキストとして購入したが、未だにきちんと読んでいない。読んだのは『幸福な王子』の短編集くらいか。むしろオスカー・ワイルドの母、ワイルド夫人が収集した民話のほうが、自分にとって親しみやすかった。ジェイムズ・ジョイスに至っては、短編のみ。『ユリシーズ』も『フィネガンズ・ウェイク』も最初の数ページのみで未だ手つかず。W.B.イェーツの詩ですら、(スライゴーに行くし、墓参りするし、読むか)くらいの気分で手に取ったのだ。
もっとも、わたしがジェイムズ・ジョイスやオスカー・ワイルドに並々ならぬ興味を抱いていたら、アイルランド旅行の行程そのものが全く違ったものになっていたはず。

そういうわけで、せいぜい“イギリス文学史”の授業で習った程度の知識しかないわたしが、今さらながらに発見したのは、

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サミュエル・ベケットは、かなりイケメン

という事実だった^^
有名な不条理劇『ゴドーを待ちながら』を書いた人、という認識しかなかった。……もちろん読んでいない。『イギリス文学史』にはもしかしたら顔写真くらいは載っていたかもしれないが、覚えていない。
(服のセンスもいいなあ~)
こんな隙のないイケメンじいちゃんがいるんだ。ワイルドだって、イェーツだって、表紙を飾るのは若い頃の写真なのに。
(スゴー)

通路の壁にも、プロのカメラマンによる、鏡像となって向き合うベケットの、横顔の写真が飾ってあった。
(こっちもいいなー。かっこいいなー)
(こんな、俳優でも違和感ない人が、不条理劇を書いたのかあ)

先月、アマチュア劇団の舞台に立つ人の話を聞いた。
台詞を追うだけではわけのわからない脚本でも、演じていると次第に自分の中でなにかが意味を持ち始める、と彼は言っていた。
そうか、そういうことか。
演者の中で意味を持ち始めると、それを見る観客の心にもなにかが生まれてくるのだろう。
不条理劇……奥が深い。
今度、『ゴドーを待ちながら』を読んでみよう。

そうして、展示物の少なくなった館内でさらに目を引いたもの――それが、このポスター(画像は絵ハガキだよ)だった。

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壁に張られたA1版のポスターの前で、しみじみと感激した。

(地味なのに、……かっこいい!)

厳密には、ジョナサン・スウィフトだけ浮いているが、みんな、超かっこいい!!
そして、サミュエル・ベケットとオスカー・ワイルドを中央にもってくるあたり、よくわかっていらっしゃる。

このポスターを購入するか否か、真剣に悩んだ。
それにしても、日本の文人を同じ構図のポスターにしても、こうもスタイリッシュにはならないだろう。何が違うのだろう、いったい。

写真の作家のうち半分近くは馴染みがない。ほどんど19-20世紀を生きた作家達だが、未だ邦訳されていない人もいそうだ。
逆に日本の作家をどれだけアイルランドの人達は知っているだろうか。

思い出すのは、前回のアイルランド旅行で、ダブリンの雑踏の中を歩いていたときのこと。ある初老のご婦人に呼びとめられた。あなたは日本人か?と問われたので、うなずくと、彼女は目を輝かせてしゃべり出した。京都に住んでいたこと、日本が好きなこと、日本の本が大好きなこと、極めつけに
「三島由紀夫は天才よ!」
と歓喜の声を上げ、彼の作品について語り出した。
(やばい。ここはリップサービスとしてジェームズ・ジョイスも天才だ、と言ったほうがいいのかな)
ジェームズ・ジョイスが天才なのはリップサービスではなく事実だが、ジェームズ・ジョイスを英語で語れるほど読んでいない、かつ三島由紀夫も1作品くらいしか読んでいないという自分の状況がかなり情けなかった。でも、まあ
(三島由紀夫……人気あるんだ。へえ……そーなんだ。……苦手だとは口が裂けても言えない雰囲気……)
と、心密かに思ってはいたのは秘密。

アイルランド文学に日本の作家達は影響を受けたが、日本の文学は彼らに影響を及ぼしたのだろうか。
少なくともイェーツは日本の能に興味を抱いて、舞踊劇を作っている。アイルランドバージョンの能である。その『鷹の井戸』、あらすじを読むと、確かに夢幻能のような内容である。が、実際に見たことがないので、残念ながらこれ以上語ることがない。
あ、そう言えば、アイルランド国立図書館のイェーツ展に『鷹の井戸』に関する展示があったわ。が、こっちもほぼ素通りしたので、やっぱり語ることがない^^
なんせ“能”をきちんと見たのは帰国してから(YOUTUBEでだが)。“能”はおもしろい。ちゃんとした能が見たいなあ。


さて、ひと通り見終わったあと、見学時間と同じくらいの時間を、唯一新しくなっていた土産物ショップで過ごした。ポスターは諦めて、絵ハガキを買った。イェーツ、ベケット、ワイルドの、画的に見栄えのする3人男のグッズは、メモ帳あり、ボールペンあり、ノートあり、と多彩だった。
(うわあ、前回に比べて、格段に土産物の質が上がっている……)

つまり、
主要展示より、土産物ショップに力を注いだ
ということだな。

それはそれで、正しい。イケメン3人組のピンバッチを手に入れて、ほくほくしているから。

帰り際、館の職員さんに「楽しかった?」と聞かれた。
「(土産物ショップが)楽しかったです」と答えた。

ええ、嘘は言っていない。



ともあれ、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲の展示を、通路じゃなくて、いいかげん部屋に一画を作ってほしい、とかいろいろ思いはあるけれども、ダブリン・ライターズ・ミュージーアムはアイルランドの作家が一同に会している素敵なところ。

詩と音楽と文学の国、アイルランドの魅力の一端がうかがえるところだ。
ゆっくり堪能するには、いい場所だなあ、と思う(カフェスペースはないけどね)。




○○○○○


遅くなりましたが、

☆あけましておめでとうございます☆
☆本年もよろしくお願い致します☆


まったりすぎるくらいの記事頻度になっています^^
ていうか、ひと記事そのものが恐ろしいほどのまったり速度になっています。スミマセン。
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# by mao-chii | 2016-01-13 23:39 | 旅の話 | Comments(0)
特攻記念館ができたのは、終戦から30年ほど経過した昭和54年である。慰霊祭も同時期に行われるようになった。神風特攻隊員やその家族は、戦後しばらくは世間の冷たい目にさらされたという。
この日、愛媛県神風特攻隊の遺族の方がこんな話をしてくれた。

関中佐の母、サカエさんの戦後は、“軍神の母”から一転して、相当厳しいものだった。ただ1人息子の墓を建てたい、との思いで、なんとか生活をきりもりしていた。
サカエさんが亡くなったのは、昭和28年。職務先だった石鎚中学校で、「行男の墓を」と言い残し、息を引き取られた。
この話はわたしも知っていたが、遺族の方がさらなるエビソードを伝えてくれた。
サカエさんが突然倒れた日、「関中佐の墓ができる」という知らせが学校に届いた。サカエさんは非常に喜んで、うれしそうに周りに話したそうだ。
しかし、同日、その知らせはデマであったと判明する。意気消沈したサカエさんが気を失い、帰らぬ人となったのは、そのすぐあとであった。
関中佐が逝ってからの8年。息子を失った母の思いというものがどういうものであったか、を切々と語る遺族の方。それは当時、息子を失ったどの母親とも共通する思いだったと思う。

サカエさんに関しては、以前、地元の方からこんな話も聞いた。
関中佐は、敷島隊の隊員の中で、唯一妻帯者だった。妻の満里子さんとの新婚生活はわずか半年ほど。関中佐が亡くなると、サカエさんは満里子さんを未亡人のままにしてはならないとの思いから、満里子さんの再婚に力を尽くした。
当時、記念館には満里子さんゆかりの品も置いてあったような……どうだったっけ?
「再婚先の情報は一切出さないという条件付きで、これらを寄贈してもらったのよ」
そう案内してくれたおばあさんは語っていた。
「前にね、高齢の男性の方がこの記念館を訪れてきてね、関さんの写真の前で立ったままずっと涙を流しているのよ。てっきり関さんのお知り合いかと思ったら、全く違っていて、ただ、その方が言うにね、自分は関さんと同じ歳だから長らく他人のようには思えなかったって。そんな人もいるのよー」
今回、その特攻記念館の展示スペースは以前より縮小ぎみに、雰囲気もみすぼらしくなっていた。維持をするのもたいへんなようだ。


私はあなたが戦死なさって九カ月後に、日本から遠く離れたアフリカの南端で生まれた「外人」ですから、もちろん、この世であなたにお会いしたことはありません。私はあなたが体当たりなさった、その月に母の胎内に宿りました。奇しくも母は、あなたと同じ年なのです。両親は、あなたから見れば敵国人です。何という不思議な因縁なのでしょう。そう思われませんか。
あなたを知る人が書いたものを読むことによってしか知ることのできなかったあなたの生涯のことが、私の心に深く刻みつけられました。あなたは他の人たちに対するのと同じように、外人女性である私に霊感を与えてくださったと言えましょう。あなたから不屈の精神を教えられ、また行動や思想というものが、これほどまでに世代を越えていく力と勢いのあるものだということを、教えられました。私たちの人生は、夢想もできないほど互いに影響しあうものなのですね。
あなた方の慰霊碑の建っている、あの幼い日の遊び場だった神社にお参りしたとき、何かしら心に湧きあがるものがありました。
(ジャネット妙禅デルポート著 『関大尉を知っていますか』より)


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遊び場……になるほど広くもなく、小さな井戸と社がある楢本神社。
くどいようだが、となりに建つ西条神社のほうが目立つ^^
でも、この神社のご祭神、大国主命がジャネットさんを導いたというから、社の見栄えで神様を判断したらだめなんだな、うん。

関中佐のお墓は、サカエさんが亡くなった次の年に、有志の協力で無事建立されている。



さて、追悼飛行がなくなり、ゆるゆると始まった式典ではあったが、遠来からの客も何名かいた。司会のマイクから
「お忙しい中、足をお運びくださった国土交通省大臣……」
と聞こえてきた。
(こんな地方の小さい慰霊祭に、政府の大臣が……?)
びっくりしたので、名前を聞きそびれた。おそらく愛媛県出身の副大臣の方だろう。
その彼が、献花と共に「関中佐の慰霊碑」に向かって追悼の言葉を述べ始めた。
「……昨今の日本の状態はかんばしくなく、「安保法案」を成立させても、国民からは「戦争法案」と非難され、日本の国土を守る立場として、このような風潮になってしまうのがまことに悲しい……」
なことを、真摯に語る副大臣。
来賓1人当たりの時間を大幅に越えてしまったため、出席者から「(話が)ちょっと長いよね」と、ひそひそ声がもれ出す。
真後ろでその声を聞いていたわたしは苦笑した。
(あー、これは仕方ないや。追悼というより、
いてもたってもいられず英霊達に奏上しにきたのだろう
私の気持ちを英霊達ならわかってくれる。その思いをどうしても英霊達に告げたかった。そんなところか。
一方、
(そうかあー、国土を守るって、防衛省のイメージだったけれど、国土交通省も関係するんだなあ。“国土”だもんなあ)
と、のんきなことを考える一出席者。
副大臣の思いは十分に伝わった。
(でも、これ、奏上されても困るだろうなあ、英霊達も)
副大臣は悲壮感をただよわせているが、冷静に顧みると、こっちの世界で生きている者の“泣き言”でしかない……そんな気がする。

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愛媛県出身の特攻隊員の遺影が丁寧にかけられている。
一番右の遺影が関中佐。













式も後半にさしかかり、地元のグループによる追悼演奏が始まった。
大正琴の演奏にのって、出席者が自然と口ずさむ。戦中を生きた人なら誰でも知っている軍歌なのだろうが、ごめんなさい、知らない歌ばかりだ。こっそり歌っている方の背後にまわり、歌詞をのぞいた。「若鷲」という言葉がみえた。
数曲目に「同期の桜」が流れたとき、あ、知ってる曲だ、とほっとした。
しかし、暗い
どれもこれも演歌な曲調のせいで、空は青々としているのにジミ~に暗くなっていく。
ラストに「千の風になって」が演奏され、ようやく今風になった。
地面にめりこんでいくジミ~な空気は一瞬にして消え去り、風吹く空にはためく白い鎮魂の幟。

で、なんと言っても印象に残ったのは、続く「海ゆかば」の斉唱である。
となりに立っていた白髪の老紳士が、いきなり清澄な声で朗々と歌い出すではないか。
うわ、さすが!
(君が代斉唱でも、こんな音量で歌ったことはないよ)
(アカペラ並みにうまいなあ)
ところで、「海ゆかば」は大伴家持作の万葉の古歌。旋律、歌詞共にとてもいい歌ではあるが、この歌を聞くと思い出す逸話がある。
松谷みよ子著「現代民話考」に、ある女性の戦中の体験としてこんな話が載っていた。

やたら高圧的で、いつもいばっている校長先生(もしくは教頭先生だったか)から、「海ゆかば」の斉唱を命じられた子供達。
先生は風貌が“カバ”に似ていたので、子供らの間ではもっぱら“カバ”と呼ばれていた。
その先生の前で、

うみ~ゆ~カバ~
やま~ゆ~カバ~


と実にさりげなく、しかし断固全員一致で“カバ”を強調して歌ったという。

いや~、いつの時代も小学生のやることは変わらないわ。
カバ先生が子供達の意趣返しに気づいたかどうかは不明だけど(笑)それにしても、カバに似ているって、いったいどんな顔だったのだろう。
なにはともあれ、「海ゆかば」はわたしの中で「カバの歌」にもなった。
戦中親しまれた歌であり、玉砕放送時に流れた曲でもある「海ゆかば」。出席者の胸中に――あの老紳士の胸中にも――いろんな思いが湧きあがってくる歌なんだろうな、と考える。


閉式の辞は愛媛県遺族会の方だった。
ペリュリュー島の話がでてきた。戦後なにかと貶められる軍人達は、みな立派な日本人だった。マスコミの影響で、なかなか事実が伝わらないのはくやしい、と語る遺族会の方。
(一番つらい思いを抱えてきたのは、遺族の方達だなあ)
そのことが身に沁みた。

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大黒繁男飛行兵曹長(左)と
永峰肇飛行兵曹長(右)

前回式に出席したときには、大黒曹長の妹さんが来られていた。










南溟にたとひこの身は果つるとも
         いくとせ後の春を思えば


永峰肇飛行曹長の歌。じんわりくるなあ。勝手に“歌のうまい永峰さん”と認識している。
大黒さんはご家族に宛てた手紙が一番じんわりくる。

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サカエさんの話をしてくれたのが、神雷部隊第五建武隊、曽我部隆少尉の弟さん。
兄弟の末っ子で、兄達4人が軍人として亡くなった、とのこと。










もはや遺族のいない特攻隊員もいる。
わたしにできることは、ただ話を聴くことだけだ。


関中佐。目的は達成されたのですよ!
これが、私が書き進んでいくなかで、最も困難を感じたところでした。狙いは、敵味方双方の欠点や罪をあばきたて攻撃することではなく、観点を変えて実相を見なおすことにありました。
というのは、私は子供のころから日本の戦いぶりについて否定的な観点からの話ばかり、いやというほど聞かされてきたからなのです。どんなことにもつきものですが、これにも個人的偏見、勝手な解釈、誤解あるいは理解の深さのちがいなどが、からんでいると思います。
しかし、あなたのように特攻隊員となって死んだ若者たちがあった、という事実は変わりません。これは大切なことです。
………
バーナード・ミロット氏は、一九七一年に出版した著書の結びに、つぎのように書いています。
「……特攻隊員の犠牲は、他の戦争での生命の犠牲と同様に無駄であったかもしれないが、あの日本の英雄たちは、世界に向かって純粋なかたちで大きな教訓を与えてくれた。彼らは歴史の深みの中から、忘れられていた人間の偉大さ、気高さを掴み出して見せてくれたのである。……」
(ジャネット妙禅デルポート著 『関大尉を知っていますか』より)




帰りに与島に寄った。
サービスエリアが充実していて、食べ物も豊富だ。
そこで見たことも聞いたこともないキャラクター群に出会った。

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わたしは香川県出身なので、それなりに関心がある。
が、四国を擬人化するなら二男二女じゃないとおかしいのでは? いや、これは単なる応援団か?
――なんて思っている間に、背後を歩いていた壮年の男性が足を止め、
「シコク萌え隊か……」
とおもむろに声に出し、それからゆっくりと去っていった。

なんていうか、そう、
”だなあ~、って思う。




☆今日のHAPPY♡THANKS☆

「うどん県 それだけじゃない 香川県」
のキャッチフレーズがいい!
こっちのキャラクターグッズを買って帰ったよ^^

長々と書きました。
次回は残ったアイルランドネタを終わらせなきゃ。
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# by mao-chii | 2015-12-14 23:39 | 出来事の話 | Comments(0)
去る10月25日。
愛媛県西条市にて、ある慰霊祭が行われた。
「神風特攻敷島隊並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典」。

もともとは西条市出身の敷島隊隊長、関行男中佐を追悼するための式典であったが、敷島隊は5名で構成されていたため、関中佐以下、中野磐雄少尉、谷暢夫少尉、永峰肇飛行兵曹長、大黒繁男飛行兵曹長の全員を追悼するようにした――という話を約10数年前に聞いた。
式典の会場は西条市にある楢本神社。大国主命を祭るごくごく平凡な地元の神社だ。(真横にある西条神社のほうが見栄えがいい^^)しかし、ここには神風特別攻撃隊第1号と言われる敷島隊の記念館がある。
10数年前、わたしが初めて楢本神社を訪れたとき、1人のおばあさんが記念館を案内してくれた。
今年の春に同神社に訪れたときには閉まっていたので、いつも開いているわけではないらしい。
当時どういう経緯で運良く記念館を見学できたのか、よく覚えていないけれど、おばあさんは地元の人しか知らない関中佐の話をいろいろしてくれた。毎年10月25日に慰霊祭があるということも、そのとき知った。
ところで、楢本神社へはタクシーを使ったのだが、運転手もいっしょに記念館に招かれた。彼にとっても初訪問だったらしく、急に少年のように目をきらきらさせて、「なんか身が引き締まりますね」と緊張しつつも笑顔で言っていたのを思い出す。
さらについでに、資料館に飾ってあった戦艦大和の模型を見て、

(すごい!! 宇宙戦艦ヤマトにそっくり!!!)

とアホなことを心の中で叫んだ訪問者がいたことも。
そうして、その年の10月25日、わたしは敷島隊の慰霊祭に参加した。


そもそもわたしが敷島隊の関中佐に関心をもったのも、1冊の本を読んだからだった。
『関大尉を知っていますか』
ジャネット妙禅デルポートという南アフリカ生まれのオランダ人女性が書いた本である。
彼女はなぜか幼い頃より日本に関心があり、また不思議な夢を始終見ていた。


私は夢の中で関大尉に会った。それ以前の約十一年間つづけて見た夢があり、私は夢の内容に非常に注意を払うようになっていたのである。……どういうわけかわからないが、私は四歳半の時、すでに日本のことを知っており行ってみたいと思っていた。九歳になるとノートに日本のことを書きはじめ、自学独習により十五歳で一応の日本語を話せるようになっていた。


ジャネットさんは日本で修業をして僧侶になったが、神道に関係することは注意深く避けていた。しかし、そのジャネットさんの夢に大穴牟遅の神名(=大国主命)が何度も出てくるようになる。

なんともまあ霊感がかったくだりだが、次第にジャネットさんは関大尉(散華して中佐)の人生を追体験していく。内容は関大尉のみに留まらず、仏教、神道などの日本人の世界観にまで広がっていく非常におもしろいものだ。
ただ、最初は愕然とした。
日本人ではない、外国人の女性が1人の特攻隊員に対する慰霊をここまで行ってくれている。そのことが少なからずショックでもあった。


さて、長い長い前置き終了。

今年、再び、敷島隊慰霊祭に参加した。
式典会場に到着すると、10数年前とはいろいろ異なっていた。
神札と航空安全守の代わりに、お弁当とタオルが配布。
(航空安全の新しいお守りが欲しかったのに……)
超世俗的なことを考えて、いかんいかん、と首をふった。地元の奉賛会の方々が式典を運営している。金銭的にたいへんなこともあるだろう。

「どこから来られたんですか?」
「岡山です」
「まあ、よくいらっしゃいました」
「他県からも来られていますか?」
「さきほどの方は兵庫県からいらしていましたよ」

受付を済ますと、新たな参加者がやってきた。そのご夫婦は、
「日本全国をまわって慰霊の旅をしているんです。前は外地にも行っていたんですけどね。レイテ島には2度行きました。でも年が年だから、もう国内だけにしようと思っているんです」
と話していた。
(そんな旅もあるんだなあ~)
会場を見渡すと、若い人の姿も見える。10数年前は、遺族の方々か、年配の方々しかいなかったのに。

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天気は上々。絶好の式典日和である。
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式典開始を待つ間、天気の良さも相まってワクワクした。
この式典の目玉はなんと言っても、自衛隊による追悼飛行
大空を飛行機が数機舞う。
さすがにブルーインパルスみたいに華麗ではないが、それでも真下から眺めると壮観なのだ。






……が、今年は飛行自体がなかった。


帰り際、受付の女性に尋ねると、
「ごめんなさいね~。風が強くて、飛行機は取りやめになったの」

航空安全守のみならず、飛行機まで……
(あれ? じゃあ、わたしは何のためにきたのだ?)

超超世俗的なつぶやきを飲み込んで、にっこりした。
「確かに風、強かったですよね」

座席のそばに一針一針縫ったであろうかなり手の込んだ巨大旭日旗が立てかけてあり、その旗にしょっちゅう顔が巻かれた。最後はついに支えを失って倒れてきた。
そんなわけで、式典の途中から立って見学した。

あの旭日旗には何の恨みもないが、やはりこのくらいの大きさが一番美しいのではないだろうか。

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いや~、青空に映えるなあ。
後半に続く~。




☆今日のHAPPY♡THANKS☆

いろいろ書きものがあって、後回しになっています^^;
なめくじのような進み具合で書いていきますので、
よろしくお願いします○
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# by mao-chii | 2015-11-21 23:23 | 出来事の話 | Comments(0)